佐原別家の消息

前々から訪ねたいと思っていた千葉県佐原へ行ってきました。 
佐原は川越や栃木と同じように小江戸〜江戸から明治の街並みをそのまま保存している歴史景観の街=蔵の街です。 東関道を成田の先まで、川崎からは2時間少々のドライブです。

 


【小野川の両岸に江戸時代の街並み、この川は利根川に繋がっている】
佐原は利根川の水運を地の利として、東北、北関東と江戸を結ぶ舟運の要衝として江戸時代に大変栄えた街です。今でも土蔵造りの店や、運河沿いに並ぶ古い街並みが当時の様子を彷彿させます。 
佐野屋10代目治右衛門孝古の文化7年(1810年)10月、佐野屋本家は橋本文蔵をして下総佐原に支店を開舗させました。 当時佐原は商売にとって有力な土地になっていました。

10代目の孝古の経営になる佐野屋本家=佐治店は、この後大いに栄える佐野屋の大店三店舗を別家・分家として創出します。 
日本橋佐孝店(菊池孝兵衛、文化11年)、宇都宮佐丹店(吉田丹兵衛、文化10年)、佐原司店(橋本文蔵、文化7年)の3大店舗
です。
 
日本橋佐孝店は、前節でも触れたように木綿太物問屋として大手に並ぶほどの成長をし、佐野屋一統のリーダー的存在になります、そして現在の大塚佐野屋のルーツです。宇都宮の佐丹店は、その後江戸に進出、下谷車坂に出店して、明治期には東京でも12を争う質屋の大店に成長します。吉田丹兵衛の墓所は宇都宮寺町の生福寺に所在がつかめました。その墓誌は淡雅が文章を作成し、教中が墨書したものでした。 

橋本文蔵は宇都宮の南西部幕田の生まれで、16歳の時から佐野屋本家で孝古に仕え、関西に行商を命じられるなどして、佐野屋の支配人としての道を歩みます。17年間の勤務の後、33歳にして佐原に支店を開くよう命を受けます。 
文蔵は商売に励み、佐原出店の5年後に孝古が他界してからも商売は大いに栄えて、竜ケ崎、福島、下妻、土浦など支店網を8店舗まで広げました。 

後に、佐孝店を日本橋の大店にのし上げた淡雅菊池長四郎は文蔵の功績を讃えて墓表を記したということが記録に残っています。

その記録を頼りに、佐原に司店の足跡を捜しに向かったのでした。 


【狭い街並みを行く山車、曲がり道では神輿のように担ぎ上げて回転する】
たまたまこの日は、佐原の山車の曳き回しがあり、狭い街並みを巧みに操縦される山車を見物することができました。この日はテスト運行のようで、山車は一台だけでしたが、夏や秋の大祭には20台以上の山車が曳き回されるというので壮観でしょう。

山車を見ながら小野川沿いに古江戸の街並みを歩いていた時です。街並みの中心部忠敬橋のすぐ先、伊能忠敬旧宅の隣に「司 佐野屋」の看板を見つけました。

司=佐野屋となると、これは橋本文蔵に関係あるに違いないとピンと来ました。早速店の奥にある居宅を訪ねてみました。


予想はあまりにも見事に的中しました。橋本文蔵翁のご子孫が当時の土地や蔵そのものを受け継いでそこに住まっておられました。事情を話すと、突然の訪問にもかかわらず、お宅に上げていただき、親しくお話を伺うことができました。

早速見せていただいたのが、橋本文蔵を描いた掛け軸でした。これは天保8年(1837年)の作で、淡雅の賛と相澤石湖画の橋本文蔵坐図が描かれていました。橋本文蔵が数え年61歳の還暦祝いに、淡雅より贈られたものです。

相澤石湖は谷文晁の弟子で、高久靄崖と同門の高名な画家です。彩色も鮮やかに、良い保存状態で美術的にもすばらしい作品だと思います。

佐孝店の淡雅は、当時の著名な文人墨客との親交が深く、自らも筆墨や書画鑑定に巧みで、自然と美術サロンのようなものが出来上がっていました。渡邉崋山や高久靄崖、相澤石湖などもそのメンバーでした。この縁から肖像を依頼したものでしょう。肖像画を見ると上り藤に「大」文字(大久保藤)、現在の橋本家と同じ紋付羽織をまとって、腰には脇差を帯刀しています。おそらく村方役人などを勤めていたのではないでしょうか。


【佐野屋司店 間口は狭いが奥行きが相当あって、江戸期創建の土蔵が残っている】


【相澤石湖画 橋本文蔵像(佐原橋本家蔵)】


淡雅の記した賛は、文蔵が佐原に開店し業を盛んにした功績をたたえ、還暦を迎えたことを祝う内容になっています。文蔵は平生から狂歌の嗜みがあり、賛の末尾に
2首の狂歌を掲げています。


 身上(しんしょうは)世界の物と思うべしおのれ一人の私(わたくし)にすな

 孫子(まごこ)には家業の道を一筋に曲がらぬように教え導け

成功者として後世に残す達観というべきでしょう。


掛軸の全体

淡雅(大橋知良)自筆の賛



東海院淡雅温卿居士
東海院とはもちろん淡雅翁の戒名です。どうして橋本家に位牌があるのか。大橋訥庵の位牌も残っているということで、橋本さんのお話によれば、坂下事件の後、幕府の追求を逃れるために避難してきたとのことです。


賢徳院深龍智底居士 佐野屋本家10代目治右衛門孝古

inserted by FC2 system