和楽味廼顧己論要(ワカミノココロエ) 菊池教中稿本 嘉永6年7月成立

我が躬の心得と云うことに主従和楽の味を思ふて廼ち己を顧み要を諭すと云う意味を兼ねてかくは名つけたるなり


家を興す人は心労ありと云えども、左程に労するとは思わず、是皆所為張合いありて其中にも楽ある故なり、又成を守るに出る者は其の親の威徳にて、成長多くは、ゆるやかなるが故に万事に行き渡ること難くなるべく張合い少なく人知らぬ苦労もあるものなり。又或人の言に賢人の後に庸人出れば其の庸人の事業最も明らかに顕れて、ことさら愚かなる如く見ゆるものなり。(この文は後に校正削除された)


余は守成の時に出たれば先君の立置れたる法度を分毫も増減なく守らんことを欲するのみ


余は商賈の家に生まれたれども、幼稚の時より家君常に読書作字(手習い)の業をのみ専らに学ばしめたまいて、年もはや弱冠(20歳)にならんとするに生産販鬻の道は露ばかりも教えたまわず、予此に於て窃に思惟しけるは読書作字は人間日用無くて叶わぬものなれば、固より廃すべきことならぬは言うまでもなし、さればとて販鬻の道も善く明らめて習熟せざれば、家を治め保つべきようあるべからず、然るに此年頃に及びても、家君の此事を打捨て置かせたまうこと心得難しと疑いて此由を慈母に申陳しに、慈母又家君にこれを告げたまいければ、或日家君の予に仰せけるは、汝この頃頻りに商賈の道を学ばんと欲する志し専らなる由、尤もなる心掛けにて至極よき事なり、今より之を教え授けなんとのたまいたるが、其日はそれのみにて其後再三これを願いけれども、只唯々とのみにて半年を過ぎるまで一向に教えたまう気色も見えず、因て復熟々自己の心に反求するに、かく不肖の身なれば、兎でも角でも此家の政を執らしむることは覚束なしとの思召にてあらんかと思いければ、これより後は快々として心も楽しまず、一年程の間は読書作字の事も殆ど廃する如くありける。


其上家君の産を治めたまいてより30年、心を焦し慮(おもんばかり)を竭(つく)し、業を創め、統を垂れ、子孫の遵守すべき成法を遺し置かせたまえば、予が如きは固くこれを守りて、失うことなければ不肖なりとも箕裘を廃墜することなく、子々孫々に至るまで唯この成法を守りなば家声を失の憂はあるべからず。


始め予の了簡には素より商賈のことなれば苟も販鬻の道をだに明かにして、貨殖の事を務めなば余が職は足りぬることと思いたりしが、今よりこれを考うるに謬れること甚し(中略)利は自ら利にして仁義は自ら仁義なれば、商賈には益無きことと捨置(中略)幼稚の時より聖賢の道を聞かず(中略)唯利をのみ求めなば忽ち破産の過を招くべかりしに、これを免れぬるは偏に有難き家君の賜にこそあれ。


余は幼稚より優長に生立ちて、今更悔い思うこと甚だ多し。二代目にしてかくの如くなれば、行末は如何あるべきやと深く之を患う。併せながら父母の教えの厳重ならざる故にはあらず、其の事は余が六歳の時、一端の縞八丈を求め袷につくりしに、家君以ての外に申したまいたるよし。十二歳の時、初めて結城紬のひけものを本だちにして小袖につくり、今は胴着に用いてあり。此前は皆姉などの直しもののみを用いしと、母の物語りたまいき。かかれば吾子孫も厳重に育ちて、衣食調度のみならず、今日五倫の道を教うることを務めとせんと思うなり。各の子孫も亦何とぞ優長にならざるよう、教訓第一にして、養育せられんことを希うなり。


才徳も事業も傑出したまへる先君の後を継ぎたることなれば、若しや家声を墜すことも有らんかとの心労は甚だ深し。


先君の定置れたる家格録は各も知る如く誠にありがたき御教訓なり、然れども段々程立つより自然耳なれておろそかに成ることもあるものなれば益々よく心をとめ少しも違わざるように心掛ること肝要なり。


蓋し家の法度は永久固守すること勿論なれども、生産の仕方の事は時勢によりて、其の得失大にあることなれば、琴柱に膠することあるべからず。実に臨機応変の取り計らい異要の第一なりと心得うべし。


是によりて余が平生の気質のほどをも能く知り、万事に付て輔翼し諫争せられば吾心も安くして大幸此の上あるべからず。


今時在勤の者は皆先君の賜にて多年吾家に在り且つ年長の者なれば、余が幼年より生質の程をも弁へて諌輔するに代りなば、後々は吾より歳少き者になるべし、其時に及て主の威光と年の長ぜるとを懼れ憚り互に隔意あるように成ては、自然家の衰微に至らんこと明かなれば、是れ予が深く恐るる所なり


各も知る通り、余は幼少より何一つ不足なく生長して身は安楽のように見ゆべけれど、才徳も傑出したまえる先君の後を継ぎたることなれば、若しや家声を墜すことも有らんかとの心労は甚だ深し


余幼年より病身にして心に任せざること多し、故に先君と其所為表裏することあり


先君の如きは聡明にして才徳兼備の御生質にて(中略)能く万事に行き渡りて欠けたることなかりければ、此の如く大業を成したまえるなり



「日本家族史論集10 教育と扶養」より「近世商家における惣領教育」(入江宏著)所載より抜粋(順不動)

inserted by FC2 system